人物 た行

  1. 太原雪斎(たいげん せっさい)1496‐1555
  2. 平敦盛(たいら の あつもり)1169-1184
  3. 平清盛(たいら の きよもり)1118-1181
  4. 平維盛(たいら の これもり)1156-1184?
  5. 平滋子(たいら の しげこ)1142-1176
  6. 平重衡(たいら の しげひら)1157~1185
  7. 平重盛(たいら の しげもり)1138-1179
  8. 平忠清(たいら の ただきよ)?-1185
  9. 平忠盛(たいら の ただもり)1096-1153
  10. 平時子(たいら の ときこ)1126-1185
  11. 平時忠(たいら の ときただ)1127-1189
  12. 平知盛(たいら の とももり)1152~1185
  13. 平宗盛(たいら の むねもり)1147-1185
  14. 平基盛(たいら の もともり)1139-1162
  15. 平頼盛(たいら の よりもり)1131~1186
  16. 高倉天皇(たかくらてんのう)1161-1181
  17. 武田信玄(たけだ しんげん)1521―1573
  18. 武田信光(たけだ のぶみつ)1162-1248
  19. 武田信義(たけだ のぶよし)1128-1186
  20. 武田義信(たけだ よしのぶ)1538-1567
  21. 多田行綱(ただ ゆきつな)?-?
  22. 伊達政宗(だてまさむね)1567〜1636
  23. 千葉常胤(ちば つねたね)1118-1201
  24. 築山殿(つきやまどの)?-1579
  25. 土御門通親(つちみかど みちちか)(源通親 みなもとみちちか)1149-1202
  26. 土肥実平(どい さねひら)?-?
  27. 常盤御前(ときわごぜん)?-?
  28. 徳川家康(とくがわいえやす)1542-1616
  29. 戸田宗光(とだむねみつ)?-1499
  30. 鳥羽天皇(とばてんのう)1103-1156
  31. 鳥居忠吉(とりい ただよし)?-1572

太原雪斎(たいげん せっさい)1496‐1555

戦国時代の僧。明応5年生まれ。臨済宗。
京都妙心寺の大休宗休の法をつぎ、天文5年駿河で臨済寺をひらき住持となり、宗休を開山にまねく。19年妙心寺住持。清見寺。善徳寺住持もつとめた。
今川義元を補佐して三河侵攻や今川、武田、北条の同盟などに活躍した。
弘治元年閏10月10日死去。60歳。駿河出身。俗姓は庵原(いはら)。諡号(しごう)は宝珠護国禅師。

平敦盛(たいら の あつもり)1169-1184

経盛の子。一ノ谷の戦いで逃げ遅れた平敦盛は、源氏の熊谷直実に取り押さえられ、討たれます。
16歳または17歳といわれ、笛の名手で祖父忠盛が鳥羽院より賜った名笛小枝を携えていたという。
敦盛を討った直実は、人生の無常を感じ出家する。

平清盛(たいら の きよもり)1118-1181

保元、平治の乱で勝利し平氏に対抗できる勢力はいなくなり、1167年太政大臣となるがやがて辞任し、翌年病のため出家した。
出家後は摂津福原(神戸市)に住み、京都の政治は子の重盛・宗盛が主導したが、清盛はなお強力な発言力を持っていた。

清盛と後白河上皇の関係は親密で、清盛妻・時子の妹滋子(建春門院)が母の高倉天皇(上皇の皇子)の即位を両者協議の上決めた。

しかしこのころから、後白河が平氏の台頭を押さえようとしたこと、平氏が院近臣からから独立しようとしたことこら後白河と清盛の間に対立が生じ始める。

1177年法皇の近臣が鹿ヶ谷で平氏打倒の諜議をしたことが発覚し、両者の関係は更に悪化します。
1179年(治承3年)清盛は武力を行使して法皇を鳥羽院に幽閉し、院政を停止します。
翌年、高倉天皇は徳子(清盛娘)との間に生まれた安徳天皇に譲位し、上皇として名目だけの院政を行ったが、実権は清盛が握っていた。

後白河の皇子で、高倉天皇の即位に不満を持っていた以仁王が挙兵し、源頼朝が挙兵するなど全国的な内乱に広がっていった。
清盛は京都を高倉上皇、安徳天皇を伴い福原に移り遷都を目指すが、内乱に対処する必要性から半年で京にもどっている。

平氏への変更が強まる中、清盛は死去します。

平維盛(たいら の これもり)1156-1184?

清盛長男・重盛の長男。平氏の嫡流。
1180年源頼朝追討の総大将として富士川に退陣したが敗走し、清盛の怒りを買う。
翌年の尾張墨俣川の戦いでは源頼家の軍を破り、その功により右中将、蔵人頭、縦三位に昇進し、小松三位中将と呼ばれた。
1183年木曽(源)義仲追討のために北陸に向かったが、義仲の奇襲を受けて大敗、平家一門ともに都落ちした。しかし、讃岐(香川県)の屋島から脱出して高野山に入り、剃髪して浄円(じょうえん)と号し、1184年3月那智の海に入水したという。

平滋子(たいら の しげこ)1142-1176

後白河天皇の后。高倉天皇の生母。院号は建春門院。清盛妻・時子の妹。
初め、後白河天皇の妹・上西門院に仕えたが天皇の目にとまり、1161年憲仁親王(高倉天皇)を生む。後白河の寵愛が深かった滋子の存在は、義理兄・清盛の昇進を助け、平氏政権樹立に重要な役割を果たした。

平重衡(たいら の しげひら)1157~1185

清盛の五男。治承四年(一一八〇)源頼政を宇治川に破り、また東大寺、興福寺を攻めてこれを焼き払った。のち、一ノ谷の戦いで敗れ、捕えられて鎌倉に送られたが、東大寺、興福寺衆徒の要求で奈良に連行され、木津川で斬られた

平重盛(たいら の しげもり)1138-1179

清盛の嫡男。
保元の乱では源為朝と戦って名をあげ五位に叙され、平治の乱では源義朝のいる大内裏を攻めて戦功をあげて伊予守に任じられる。
その後は後白河上皇の近臣となり、1167年には権大納言に出世するとともに、東国・西国の山賊・海賊追討を命じられた。これは諸国の軍事権を平氏が手中にしたことを意味するもので、重盛は平氏の家督と院近臣の立場にあって政界に重きをなした。
1177年内大臣に任じられたのちは、身の病弱と妻が鹿ヶ谷事件の首謀者である藤原成親に妹であったことから、目立った活動は見られずに亡くなった。

平忠清(たいら の ただきよ)?-1185

伊勢を本拠とする平氏家人の家に生まれ、保元の乱に参戦。
治承3年の政変後は、縦五位下上総介に任じられた。また、坂東8ヵ国の奉行をしたとされる。
源頼朝挙兵の際は大庭景親に指示を出し、富士川の戦いには副将として参戦し平維盛に退却を勧めた。
平清盛の死後は出家、平氏に都落ちには加わらず、1184年の平田家継らの蜂起に参加したが、志摩で捕らえられ京で斬首された。一族とともに平氏軍の中核を占めた家人。

平忠盛(たいら の ただもり)1096-1153

平正盛の長男。清盛の父。白河・鳥羽両院政のもとで軍事力の中心となって活躍。
越前、伊勢、河内、備前、美作、播磨、但馬などの国守を歴任する間に、西国地方の武士と主従関係を形成して勢力を拡大、経済力を築いた。平氏繁栄の基礎を着実に築き上げた。

平時子(たいら の ときこ)1126-1185

平清盛の妻。宗盛、知盛、重衡、徳子(建礼門院)らを出産。清盛とともに出家。
1171年娘・徳子が高倉天皇に入内したため縦二位に叙され、二位尼と呼ばれる。
1178年徳子が皇子(安徳天皇)を出産、宗盛が平氏を継ぎ、平氏一門の主流となる。しかし、1185年壇の浦で平家一門が滅亡したときは、敗戦を知ると率先して入水して果てた。

平時忠(たいら の ときただ)1127-1189

平安時代後期の公卿。
大治(だいじ)2年生まれ。平時信の子。姉時子は平清盛の正妻、妹建春門院は後白河天皇の女御(にょうご)。正二位、権(ごんの)大納言にのぼって権勢をふるい平関白と称された。壇ノ浦の戦いいで捕らえられたが、源義経を娘婿として保身をはかる。のち、源頼朝により能登(石川県)に流された。文治(ぶんじ)5年2月24日死去。63歳。

平知盛(たいら の とももり)1152~1185

清盛の四男。権中納言。
源頼政を宇治で、源行家を播磨
はりま
室山で破った。一の谷の戦いで奮戦し、のち、壇ノ浦の戦いで入水。
謡曲・浄瑠璃などに脚色される。

平宗盛(たいら の むねもり)1147-1185

平清盛の3男で、重盛の死後は平氏に長者としてその中心に位置します。
以仁王の反乱、源氏の東国での反乱がおきると清盛を説得して都を福原から戻し、畿内の軍事組織である惣官職を設置して惣官となります。
清盛の死後は後白河の復活を認めつつ反乱軍に対応したが、折からの飢饉に悩まされ兵糧米の調達もままならない中、具体的な政治方針を示すことはなかった。
北陸に送った木曽(源)義仲追討軍が敗れ、安徳天皇とともに西国に落ちた。その後一時勢力を盛り返すが一ノ谷の戦い、讃岐の屋島、長門の壇ノ浦と次々に敗れ身を海に投じる。しかし、捕らえられ鎌倉に送還されたのち、京に送り返される途中で斬首されてた。

平基盛(たいら の もともり)1139-1162

平清盛の次男。母は高階基章の娘。
保元元年検非違使となり、京都の治安維持にあたる。保元の乱では源親治(ちかはる)を捕らえる。大和守、淡路守などを歴任したが、応保2年3月17日宇治川で水死した。24歳。

平頼盛(たいら の よりもり)1131~1186

忠盛の第五子。清盛の異母弟。正二位権代納言。
その居を池殿といい、池の大納言と称した。母池禅尼が頼朝の命を救けた功により、平氏滅亡後も所領を安堵された。

高倉天皇(たかくらてんのう)1161-1181

後白河天皇と建春門院滋子の皇子。1168年即位。父の院政のもとで成長する。
1172年平清盛娘・徳子を中宮とし、1178年生後間もない皇子(のちの安徳天皇)を皇太子とします。
1180年譲位し、福原遷都にも同行しますが、将来の病弱に加えて父・後白河法皇と義父・清盛の対立が重なり、翌年死去します

武田信玄(たけだ しんげん)1521―1573

戦国大名。名は晴信。幼名勝千代。号は徳栄軒。甲斐守護信虎の子。
1541年父を追放し自立。信濃の諏訪氏・小笠原氏を倒し,上杉謙信と数度にわたる川中島の戦で激突。さらに駿河に進出。西上を志し、1572年遠江三方原で徳川家康に大勝したが,陣中で病死。
甲州法度之次第を制定。治水、鉱山の開発など民政上の施策にもすぐれていた。

武田信光(たけだ のぶみつ)1162-1248

甲斐源氏信義の子。1180年一族とともに挙兵、駿河国(静岡県)に出陣し平氏方を破ります。
その後頼朝の傘下に入り、平家追討、奥州合戦にも参加する。阿野全成の逮捕や和田合戦などで活躍。
承久の乱の際にも東山道の大将軍として上洛した。
なお、兄一条忠頼が頼朝に誅殺されたため武田家の家督は信光が継ぎました。

武田信義(たけだ のぶよし)1128-1186

甲斐源氏源清光の子。1180年以仁王の令旨に応えて挙兵。
信濃国の平家余党を制圧したのち、源頼朝の要請に応じて駿河国に進出。
富士川の戦いでは夜襲をかけて平氏を敗走させ、頼朝より駿河国の守護に任じられた。しかし、甲斐源氏の台頭を警戒する頼朝は、1181年信義に叛意の有無を糾問。1184年には嫡子一条忠頼を誅殺した。このとき、信義も頼朝の怒りに触れ失意のうちに一生を終えます。

武田義信(たけだ よしのぶ)1538-1567

戦国時代の武将。
天文7年生まれ。武田信玄の長男。世継ぎとなるが父信玄と不和となり、謀反の嫌疑をかけられて投獄され、永禄10年10月19日自刃した。30歳。

多田行綱(ただ ゆきつな)?-?

摂津源氏頼盛の子。1177年鹿ヶ谷事件で諜議に加わるが、やがて平清盛に内通。
その後も木曽(源)義仲、源義経に従うが、1185年源頼朝と対立して都落ちする義経一行を裏切り、襲撃するという変わり身の早さを見せた。

伊達政宗(だてまさむね)1567〜1636

初代仙台藩主。
18歳で家督を継いで陸奥(福島県)伊勢郡を領有し,二本松の畠山氏を討った。佐竹・結城氏らの強力な連合軍の侵入を撃退し,1589年蘆名氏を滅ぼし会津を領有した。
’90年豊臣秀吉が小田原後北条氏を攻めると、対抗を決意したが、小田原陣中で秀吉に服属。
関ケ原の戦い(1600)では東軍に属し上杉景勝を攻め、功により62万石を与えられた。
’13年には支倉 (はせくら) 常長をローマに派遣し,また和歌・茶道にも長じた。

千葉常胤(ちば つねたね)1118-1201

1135年父から上総国相馬御厨を相続したが支配が安定せず、支配を安定させるために保元の乱は源義朝に属したと見られる。しかし、平治の乱で義朝が滅亡すると相馬御厨は常陸の佐竹氏の所領となり、さらに自身の所領も平氏によって圧迫された。
源頼朝が挙兵すると、積極的にこれに応じ、木曽(源)義仲、平家追討には一族で源範頼の軍に属し、壇ノ浦合戦後も鎮西守護人として九州にとどまり、戦後処理にあたった。
1187年8月、上洛して京中の狼藉を鎮め、奥州藤原氏追討の際は東海道大将軍として出陣。
これらの武功によって日本各地に所領を獲得し、下総守護に補任された。
頼朝の信任はきわめて厚く、御家人の筆頭として奥州合戦では勲功の賞を最前に拝領した。
また、年頭の椀飯沙汰(祝儀の品を添えて椀飯を献ずる儀礼)も常胤が最初に努めるのが恒例であった。

1135年父から上総国相馬御厨を相続したが支配が安定せず、支配を安定させるために保元の乱は源義朝に属したと見られる。しかし、平治の乱で義朝が滅亡すると相馬御厨は常陸の佐竹氏の所領となり、さらに自身の所領も平氏によって圧迫された。
源頼朝が挙兵すると、積極的にこれに応じ、木曽(源)義仲、平家追討には一族で源範頼の軍に属し、壇ノ浦合戦後も鎮西守護人として九州にとどまり、戦後処理にあたった。
1187年8月、上洛して京中の狼藉を鎮め、奥州藤原氏追討の際は東海道大将軍として出陣。
これらの武功によって日本各地に所領を獲得し、下総守護に補任された。
頼朝の信任はきわめて厚く、御家人の筆頭として奥州合戦では勲功の賞を最前に拝領した。
また、年頭の椀飯沙汰(祝儀の品を添えて椀飯を献ずる儀礼)も常胤が最初に努めるのが恒例であった。

築山殿(つきやまどの)?-1579

徳川家康の正室。今川義元の重臣関口氏純の娘。母は義元の妹で,義元の姪に当たるといわれる。
駿府の今川家に人質としてとどめられていた家康(当時松平元康)と結婚。長男信康、長女亀姫(加納御前)を儲ける。
義元の戦死後、家康が本領の岡崎に戻ったため、築山殿母子は一時今川氏の人質状態に置かれた。このことが家康との不和の原因になったとされる。家康が浜松へ移居したのちも、信康の後見と称し、岡崎城にとどまった。信康の妻徳姫(織田信長の娘)とも不仲で、築山殿と信康は、信長から武田勝頼と内通しているとの嫌疑をかけられ、信康は謹慎させられる。
築山殿は家康の許へ弁明に赴く途中、遠江国富塚で家臣によって殺害された。墓所は西来院(浜松市)。

土御門通親(つちみかど みちちか)(源通親 みなもとみちちか)1149-1202

村上源氏雅通の長男。
高倉天皇近臣となったが、平氏が都落ちした後は後鳥羽天皇の乳母・高倉範子を室に迎えるなどして後白河の近臣に加わった。
通親の朝務に対する手腕は政的九条兼隆にも讃えられるほどで、頼朝の娘・大姫の入内工作を依頼されるなど関東の信任も得た。
法皇の死後も、丹後局と結託して勢力の温存に努め、1195年範子の連れ子・在子に後鳥羽天皇の第一皇子仁が誕生するやその養育にあたり、翌年宿敵・親幕派の兼実一等を廟堂から追放した。
頼朝の死を契機に、京都の親幕勢力を一掃した。

土肥実平(どい さねひら)?-?

相模国足下(あしのしも)軍土肥郷(神奈川県湯河原町、真鶴町)を本拠とした。
源頼朝の挙兵に参加、石橋山の敗戦後頼朝を真鶴岬から逃し再起の元をつくった。
頼朝に重用され、佐竹氏、木曽(源)義仲、平氏追討の参戦。備前、備中、備後国の惣追捕使に任じられる。
平氏が滅ぶと、平宗盛らを京に護送、源義経没落後の洛中警備の任にもあたった

常盤御前(ときわごぜん)?-?

近衛天皇の中宮九条院の雑仕
であったが、源義朝の妾となり、 阿野全成 (今若)、 義円 (乙若)、 源義経 (牛若)を生んだ。
義朝の死後、母と子の放免を条件に平清盛の妾となり、のち、藤原長成に嫁したと伝えられる。

徳川家康(とくがわいえやす)1542-1616

江戸幕府の初代将軍(在職1603〜05)。三河(愛知県)岡崎城主松平広忠の長男。
幼時から隣国の織田・今川氏の人質として育ち,1560年今川義元が桶狭間で敗死後,岡崎に帰り独立。西上する織田信長と同盟を結び東へ進出。
信長の死後その子信雄を助け,小牧・長久手の戦い(’84)で豊臣秀吉と戦ったが和して臣従した。’90年小田原征討の後関東6カ国を与えられ江戸城に移った。
秀吉の死後,1600年関ケ原の戦いに勝って覇権を確立。’03年征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。’05年将軍職を子秀忠に譲ったのちも駿府で大御所として政務をみ,周到な配慮で幕府の基礎を固めた。’15年大坂の役で豊臣氏を攻め滅ぼした。’16年太政大臣任官の後,駿府で病没。
【格言など】人の一生は,重き荷を負うて遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず(遺訓)

久能山東照宮徳川家康の墓(静岡市駿河区)

戸田宗光(とだむねみつ)?-1499

戸田氏の祖。三河田原城主。もと碧海郡(へきかいぐん)上野の地侍。知多・渥美半島に進出し、大津城、田原城をきずく。さらに吉田の二連木城にうつったが、明応8年船形山の戦いで今川軍に敗れて討ち死に。

鳥羽天皇(とばてんのう)1103-1156

平安時代後期、第74代天皇。在位1107-23。
堀河天皇の第1皇子。母は藤原苡子(いし)。嘉承(かじょう)2年父の死により5歳で即位。祖父白河法皇の院政下にあり、譲位後もつづいた。大治(だいじ)4年白河法皇の没後院政をとり、崇徳(すとく)・近衛・後白河の3天皇28年におよんだ。保元(ほうげん)元年7月2日死去。54歳。

鳥居忠吉(とりい ただよし)?-1572

戦国時代の武将。
長亨(1487-89)のころ三河で生まれ、松平清康、広忠、につかえる。広忠の子竹千代(徳川家康)が駿府で人質になっていたとき、今川義元今川義元指揮下の岡崎で総奉行をつとめ、家康の帰還後の活動にそなえ、ひそかに城内に物資をたくわえた。元亀3年3月25日八十余歳で死去。

タイトルとURLをコピーしました